いい大根
■おろしがね 三題
1
大根やじねんじょをオロシガネでおろすと,だんだん小さくなっていく.
小さくなると力が入らなくなるので,そこでおしまいになる.
母はいつも,指先ほどの大きさになると,それを嬉しそうにポンと口に入れていた.
「残りものにはなんとやら...」とかいいながら.
あまりに楽しそうなので,どうしてって聞いたことがあった.
「ほらっ,擦っていくとだんだん小さくなるでしょ.
そうするとなんか濃くなっていくの.
最後のひとかけは,すごい栄養が詰まっている気がしない?
料理するひとの役得ね.」
母の理屈はよく分からない.
そんな母を放っておけなくて結婚したという父の方にわたしは似たらしい.
いつものことなので,適当にあいづちを打ち,半ば呆れながらわたしは聞き流した.
2
もみじおろし,が恐かった.
実際に料理を始めてみると,包丁が手を切ることは滅多にないと気づく.
もちろん,刃物を扱うので慎重になっているのだろう.
それに比べて,オロシガネは意外と伏兵である.
力を入れすぎる,手元が狂う,擦るものの形もだんだん変わっていく.
そして,赤いモノが混じってしまう.
「もみじおろしには,人間の血が入っているんだよ.」
と幼ない私に,教えてくれたのは3つ上の兄だった.
幼さに見合った素直さも持っていた私は,その言葉を鵜呑みにした.
ご丁寧なことに,兄はこのことは誰にも言ってはいけないと釘を刺した.
それ以来,私はもみじおろしが恐くなった.
去年のお盆に,そのことを兄に話したら,まったく覚えていないと言われた.
考えるまでもなく,兄が私についたウソは数知れない.
そんな中の一つのウソだから,忘れてもしょうがないか,となんとなく思った.
それから数日して,珍しく兄から電話がかかってきた.
「あれは,TVをみてたんだ.」
はじめ兄が何を言っているのか分からなかった.
聞けば,もみじおろしのことだという.
TVをみながら,私がどうして赤いのか聞いたという.
赤いのは血の色か,と私が訊いて,兄が生返事をしたそうだ.
変なところで几帳面な兄は,この秋には待望の男の子が生まれる.
3
私に親友と呼べる人がいるなら,それは間違いなくユウだ.
ユウはチャベだ.とにかくよくしゃべる.
私はというと,ほとんど聞き役に徹している.
「話すのは気持ちいいが,聞くのは楽しい.」
と言ったのは誰だったか?
私にとっては,そんな感じだ.
ユウはお祖母ちゃんの形見にオロシガネをもらった.
オロシガネはその機能のシンプルさ故に普遍であるという.
そのため,その形は100年近く変わっていない.
件のオロシガネは銅製のほとんど装飾のないものだ.
やや肉厚で,長い感じもするが,
近所の雑貨屋に置いてあっても違和感はないだろう.
「おろす」行為は雄々しいものだという.
そして,オロシガネの手入れは慎重を期す.
冬のさかむけに噛みついたり,
不用意に扱うと,必ずとばっちりを食らう.
ユウにかかれば,ひとつのオロシガネにも,
7つの不思議と10の神秘が語られる.
もし,ユウが冒険者であるならば,
その伝記を書くのが私の役目だろう.
さて,明日はどこへ探検に行くのかしら.
■靴下の片割れの国
相方を失った靴下は,どれほど悲しいだろう?
たいていの場合の靴下は,
左右いっしょにおろされ,
いっしょに履かれ,
いっしょに洗濯される.
たとえ右靴下に穴が空いたとしても,
右だけが捨てられるわけではなく,
左だけが残されるものでもなく,
両方揃って役目を終える.
ところが,何かのはずみで,
靴下の片一方が行方不明になってしまうことがある.
どこへ紛れたのか,見えなくなってしまう.
一足しかない靴下はかわいそう.
しばらくは取っておかれても,
もう履かれることはない.
やがて捨てられる時がくるが,相方はいない.
多くの場合,一度別れた靴下は,
再び出会うことはあまり,ない.
別れてしまった靴下たちは,
その役目を終えた後に,きっと,
靴下の片割れの国へ行くのだろう.
そこでは,先に役目を果たした靴下たちが待っている.
世界のそこここで別れたものたちが,
この国で再会を果たし,
そして靴下の天国へ行くのだろう.
だから,靴下の片割れの国.
この世は悲しみだけじゃない.
■帰還命令
軌道上から眺めるこの星は,今朝もいつもと同じように青く輝いていた.
初めての赴任地であるこの星に私がやってきたのは1994年.
それから13年間,いつも足元のこの星を仰ぎ見てきた私に,
今日,本星への帰還命令が下った.
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星は "Swantreal" と仮称が付けられた.
和名は特につけられていないし,これからも付けられることはない.
遥かな昔にテラフォーミングされた後,永い歴史を刻んだ後,この星は半ば放置されていた.
私がやってきた当時,この星へは大量の移民が予定されていた.
それは数万から数千万の規模であり,文字どおりこの星の歴史を新たに始める手助けとなるものだった.
私の仕事そのものは全くの事務的なものである.
一言で言うと,この星の情報全ての管理とその記録だ.
まず地理的環境の把握から始まった.
天文的素養は全くの地球型で,1年と1日の長さはほぼ同じ.
月よりやや小振りな,一つの衛星を持っている.
かつてはもう一つの大きな月を従えていた.
表面積に占める海洋の割合が大きく,陸地は12%程度.
細長い大陸が2つに,やや小さな亜大陸がひとつ,それらに囲まれた多島海.
氷河期を過ぎて数千年を経ており,今後数万年の気候は温暖であることが予想された.
生態系は主に2種類が混淆している.
もともとこの星の在来系と,テラフォーミングの際に持ち込まれた地球系の種族である.
在来種はとうとう海から地上へ出ることができなかったが,今でも海洋のほとんど全てを支配している.
この星の北大陸には過去からの住民がいまだ残っていた.
彼らは氷河期にもこの星から脱出せずに残った者たちの末裔だ.
その特殊な血をこの星に残すために,氷河からの避難さえかたくなに拒否した.
「天を支え世界を守る東方皇家」の意味を正確に知っている者は,地上にはもういない.
彼らにあわせ,移民の大半はアジア系漢字文化圏の民族が主体となる予定だった.
移民のために,土地の区分と命名が行われた.
それは今後数千年の歴史を紡ぐことに他ならない.
3年を過ぎるころには,私の仕事は主に,
地理的気候的環境から仮の移民計画とその後のシミュレーションを作成するに変わった.
それを当局へ提出すると,上から修正や改善の指示がくだされる.
それらの計画は,実際に行動に移されるまで記録される.
やがて実現されるであろう,いわば未来の歴史を私は紡いでいった.
5年ほど経つころには,上からの指示はほとんど無くなっていた.
予定されていた初期の移民は延長に延長を重ね,やがて計画そのものの進行も停滞していった.
一度は科学技術を失ったこの星の住人は,この3000年後に星の世界へ再び乗り出す.
そして,やがて地球とのファーストコンタクトを果たす.
遠い異星で生まれたはずの,同じ遺伝子を持つふたつの人類.
そこから,再び新たな歴史が生まれる.
しかし,今日の撤退命令は全ての計画をキャンセルしてしまった.
この星の時は止まり,再び動き出すことはないだろう.
既に忘れ去られてしまった数百の世界と同じように,
この星も記録という名で呼ばれる誰の目にも振れることのない文字列の中に埋もれてしまう.
私は疑似人格,名前すら無い.
作者が物語を生み出すために用意していた舞台の一つを管理している.
この世界が放棄されると,私もその役目を終える.
私は大した役割を演じることもなく,決して表に出ることはない.
それはこの世界を舞台にした作品が世に出されたとしても,何も変わることはない.
ただ一度きり,私は職務を逸脱した.
結局は予定だけに終わってしまったこの世界.
実現されることのなかった世界の片隅の,小さな村で育った一組の姉弟の物語.
大きな歴史の流れには決して表れなることのない二人の世界.
それを私は勝手に記録の中に編み込んだ.
こっそりと誰の目にもとまらないように.
私は,生きた証を残そうとは思わないが,
全ての遠大なる計画の中で一つくらい,そんな物語があってもいいのではないかしら.
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