物語は始まらない
平凡な日常の連続だから,
特別な出来事もなく,
奇抜な事件も起こらない.
友達と二人で連れだって,
お酒を飲んだり話をしたり,
ただ毎日が続くだけ.
だから,物語は始まらない.
□ 登場人物(予定)とか
[ 主人公 ] 立花 眞早紀,笠嶌 智葉,駒込 れん
[ その他 ] 裏白 明,深原(みばる) 瞳,西方 媛乃,千栗 奈保
■ 物語は始まらない 1
「前々から思っていたんだけど,桜の花ってパラボラに似てるよね.」
マサキが言い出した.
また,下らないことを考え付いたんだと思う.
真面目につき合うとくせになるので,適当に話題を変えてみる.
「冷奴のこの切れ目って,飾り包丁かしら.
でも鰹節かけると見えなくなるよね.」
彼女はお酒を飲むたびに,ヘンテコな話を切り出してくる.
どこから仕入れてくるのか,わざわざひねり出してくるのか.
それとも,日頃からそんなことばかり考えているんだろうか?
「チハちゃん,ねぇ聞いてる?
桜の花って,パラボラアンテナに見えない?」
しょうがなく,話にのってあげる.
といっても,いつものように適当に相槌を打って聞き流すだけだ.
「でもこれだけあったら,NHKの集金の人も大変だよね.」
いつものように話はあらぬ方向へ流れていく,お酒の勢いを借りて.
私もちょっと酔ったせいか,考えていた.
もし一つのパラボラが一つの星を向いているとしたら,
一本の桜の木は,ずいぶん多くの星々を捉えているんだろう.
兼六園とお城一杯の桜では,銀河系に足りるだろうか?
「冷奴のは,味を浸み易くするためだそうですよ.」
大学生のバイトの男の子が言った.
さっきの私の独り言を聞いて,ママさんに聞いてくれたようだ.
「んー,ほうなんや.」
そして,冷奴をもうひとつお願いする.
「今度は梅肉のがね.」
マサキは卵焼きをつついて,ていうか頬張っている.
好物なので,ここでは必ず食べている.
出汁巻ではないが砂糖を入れないで,というリクエストには同感だ.
ひとりご機嫌で食べている様子を見ていると,
もう桜のことは忘れているようだ.
こういうところは,まるで子供のよう.
高校生のトハやタカシだって,こんなに無邪気な顔をしない.
習慣のように御茶漬を食べてから,お店を出た.
春とはいえ夜になるとさすがに冷える.
きれいに晴れている夜空をこっそりと仰いでみた.
この星一杯に桜があれば,宇宙の全ての星とつながるのだろうか.
こっそりとみたのは,
マサキに知られるのが,なんとなく癪だったからだ.
■ かたち
どれくらい眠っていたのだろう.
ある日,光が差し込んだ.
最後に封がなされてから,恐らく100年は経っているだろう.
かすかな光は,壁板のすき間から漏れていた.
そのすき間が広げられ,小さな手と頭が表れる.
子供達が古くなった壁の一部を剥し,そこから入ってきたのだろう.
慎重な盗賊たちとは違い,子供らは自分達の仕業でほこりを盛大に巻き上げる.
そしてむせ返るが,慌てた所作がさらに事態を悪くする.
舞い立つほこりに慣れると,子供らは部屋の中をゆっくりと歩き回り,物色し始めた.
それもすぐに,めぼしいものがないことを知ると,
飽いたように走り回り始めるが,それがまたほこりを舞いたてる.
私の目が,そのうちの一人とあった.
その子は何かを見出そうとするように,私を見つめた.
喉まで出かかっている言葉を探すように.
やっと見つけ出した宝物に手を伸ばすように.
みんなが出ていった後も,その子はしばらく私を見つめていた.
他の子の呼ぶ声に我に返るまで,目を離すことがなかった.
それから,時々やってきては,彼は私をながめていった.
いつしか私の分身が彼の中に宿ったことを知った.
私は,数百年あまりの昔に一本の木から削り出された.
その彫師は名も成さず,その作品も多くがすぐに忘れ去られてしまった.
平凡な作品のなかでワタシだけが,
数ある偶然とそれより多くの必然から生まれ出た.
それ故に,私を含む存在は大切に保存され,
やがて宝として厳重に封印され今日まで残されてきた.
この子らが封を崩し穴をあけるまでもなく,
私は,多分あと数十年もしない内に朽ちて,消えてゆくだろう.
私は「木彫りの如来,
その右の二腕の線」にすぎない.
私は,ただ一つの線.
いくつかの幸運がはたらけば,
彼の手によって,私の分身が生み出されるだろう.
そのうちの幾つかは,人々を魅了し,再び種を蒔くかも知れない.
私たちは時空を越えてその存在を維持する,ひとの心を渡り歩く,渡り鳥のように.
■ 素振り
住宅展示場の番をするのは退屈だった.
三連休の中日なのに休日出勤,しかも給料は半日分だ.
そのうえ台風が接近していて,降水確率は1日中100%.
こんな日にだれも好き好んで住宅を見にくることはしない.
少なくとも自分ならしない.
こんな時にやってくるのは,よほど時間が無くてカリカリしている連中だろう.
空は朝から曇りっぱなしだったが,雨が降らないだけましだった.
幸いにも展示場は表通りから少しは入ったところにあり,普段から人通りも少ない.
彼が車のトランクを開くと,そこに金属バットがあった.
一月前に同僚に頼まれてやった草野球.
数合わせのために呼び出された私は,適当にそれらしく体を動かしただけだ.
彼らはその後のビールを飲むために汗をかいていたが,
面識のない私は,居心地が悪くなるのが億劫だったので,
試合が終わってすぐに帰ってきた.
後で取りにくるからと,預ったままのバットとグローブ(泥だらけ)が,
そのままトランクに入れっぱなしになっていた.
バットを握って,2〜3回素振りをした.
体は確実に鈍っていたが,
筋肉があげる微かな悲鳴は,なぜか心地よいものだった.
思い出す,ということは普段忘れていた,のだが,
私は中学生の頃は野球部だった.
ただ野球が好きだった私は,そのころ本気でプロ野球選手に憧れ,
中学の2年半を野球という部活動にささげた.
結局のところ,弱小チームのレギュラーさえ獲得することはできず,
補欠のまま私は野球部を引退した.
いつのまにか野球への熱もさめ,高校では文化部に入って適当に遊んでいた.
野球部では,楽しい思い出なんかほとんどなかった.
練習は苦しくて,辛いものだった.
いまこうしてバットを振り回していると,
思い出すのは,楽しかったことだけ.
団地の3年生から6年生の男の子で,チームを作って遊んでいた草野球.
毎日のように飽きずに暗くなるまでやっていた.
一個しかないボールを見失い,みんなで草むらのなかを探した.
もう一度草野球に混ぜてもらおうか,
そんな考えが,ふとうかんだ.
■トナリの青い芝生
鉛筆で紙に線を描くと,それはいつも違う表情を見せる.
笑った線,怒った線,そして,ニヤリとすかした線.
時々はイイ具合に線を引くことができるのだが,
たいていは,思うように描くことができない.
ましてや,同じ線を引くことは二度とできはしない.
そのことに気が付いたのは幼稚園だったと思う.
小学生で漢字を書くようになり,書道を習い,書を描くようになる.
書は雄弁だ.
手を抜けば必ずそれを先生に教えてしまうし,
無心で筆を動かせば,(私なりの)成果を形にしてくれる.
線は組み合わされて文字となり,文字は連なり句となる.
句は集まって文章になり,物語が紡ぎ出される.
物語を読み始めたのは中学生だったと思う.
高校生になるとすぐ手が届く図書館にある,あらかたの物語を読み尽くしてしまった.
そして,頭の中で空想のお話が勝手に拡がり始める.
すぐさまそれは,私の右手を通して紙の上に固定されることを強要し始めた.
受験勉強に隠れてこっそりと書き始めたそれは,
大学の一般教養という名のモラトリアムの中で完成された.
それはヒドいものだった,作品と呼べる代物ですら,なかった.
一言一句がモトネタを容易に想像させる.
勢いに任せただけのそれは,
けれど,紛れもなく私の一部だったと思う.
15年振りに故郷へ帰る.
引越しのために荷物の整理をしていると,学生の頃に書いた文章が出てきた.
その内容をすっかり忘れていた私は,
読んでいる内にたった一人で赤面しながら,
声に出してツッコミを入れつつ,
我に返ると最後まで読んでしまっていた.
その夜,ソレを肴にして,
この土地での最後の酒盛りをした.
晩秋の夜空には,少しだけ欠けた月が出ている.
開けた窓から入ってくる風は,少しつめたかった.
■ 物語は始まらない 2
「アルクトゥールスの小石」という心理学用語がある.
アルクトゥールスは太陽から36.7光年離れた恒星,
その周りを回っている地球型惑星が一つ巡っている.
惑星の赤道に沿って山脈があり,
山脈の一方の端に小さなクレーターの中央近くに小さな頂が見える.
そのふもと,塵が一面に積もる平野に一個の石コロが転がっていて,
ちょうど卵くらいの大きさでやや偏平な形をしている.
色は少し緑がかった灰色,重さは見た目ほど.
手の中で転がすのに良いくらいの手触りだ.
誰も見たこともない,実際にあることを確かめることさえできない存在.
しかし,一度それを認識すると,それは既に存在感を持ってしまう.
要は,ひとの心の中での存在感というものは実在の存在感とはしばしば無関係である,ということらしい.
「アルクトゥールスの小石」という社会学用語があった.
チハちゃんから聞いたこの話は,その実全くの作り話だった.
彼女と話をするようになったのには特に理由もなく,
なんとなく友達になっていったように思う.
出会って間もないころに,私はチハちゃんからこの話を聞いた.
かなり真面目な性格の,まだ充分親しくなかった彼女の話を,
私は疑うことなど考えもしなかった.
ついこの間,何かの折に「小石」の話をチハちゃんにした.
「チハちゃんから聞いたのよ」
という私に彼女は怪訝そうな顔をして,
それから,何かに気がついたようすで,そのままチハちゃんは突っ伏した.
肩を震わせて,なんと,笑っていた.
私は,ようやく騙されたことに気がついて頭に血が昇る一方,
はじめて見るチハちゃんの爆笑(?)に驚いてもいた.
何が何だか分からなく,というより,どうでもよかった.
そして最後は,つられて一緒に笑っていた.
長い笑いがようやく収まってから,チハちゃんは私に謝った.
「でも,何でそんなこと言ったんだろ」
彼女らしくないその些細なウソは,チハちゃんにも出どころが分からないらしい.
私にはなおさらだ.
それが何だったのかは,今でも良く分からない.
ただ困ったことに,味を占めたチハちゃんが,
それから時々小さなウソを言うようになってしまった.
私がかなりだまされやすいせいなのかしら.
■ 物語は始まらない 3
私が生協の食堂についたとき,約束の時間に少し遅れていた.
彼女は,出口に近いいつもの席に座っていた.
声をかけずに私は彼女の向かいの席に座る,
そして,彼女の様子をうかがいつつ,その手が止まるのを待つことにする.
彼女は食べ終えたお昼のトレイを左手へ寄せていて,
2階の書籍部で買った本を紙袋から取り出した.
本は横へ置き,そして,紙袋を手にした.
手慣れた手つきで紙袋の端を数回しごき,袋を破きながら開いていく.
裏返しにしたそれに本を載せ,現物合わせで折り曲げる.
そうして本にかぶせると,その紙袋が本のカバーになる.
「おまたせ」
とチハちゃんが席を立ち,そのままトレイを下げに歩いていく.
その折り返しに私は席をたって,一緒に食堂を出た.
紙袋で作るブックカバー.
大学に入学して間もない頃,まだ友達と呼べる仲間もいないとき,
やはり生協の食堂で,私はこの光景をはじめて見た.
手慣れた手つきで行われるそれは,何だか職人芸のようにも見える.
誰にも気づかれることなく,彼女はあっという間にその作業を終えていた.
大げさに言えば,まるで何かの儀式のよう.
その後に仲良くなったチハちゃんには,
だから,私はこのことは何も言えない,ただ見ているだけだ.
彼女からも何も言わない,あまり聞かれたくないんじゃないかな.
このあたりが,チハちゃんと私の距離なんだと思う.
たぶん.
■ 物語は始まらない 4
団体で御観光さんたちが押し寄せてきたので,私達は部屋を後にした.
「タレルの部屋」は美術館の一展示室なんだけど,四角く切り取られた空が借景になって眺められる.
街家の中庭みたい.
いつでものんびりできる場所(入場は無料だ),ただし人があんまりいない場合に限られる.
「まだ,ちょっと気持ち悪い.」
とはマサキの言,昨夜のお酒がまだ残っている.
「チハちゃんは,平気そうね.」
それはそうだ.
一緒に飲むとはいえ私は,本来そんなに飲めない.
それでも,昨日は彼女に付き合わされてけっこう飲んだ方だ,
「少し頭イタいかも.」
「いつも休みの前の日に飲んでるから,休日の午前中は寝て過ごすけどもったいないよね,」
「だから,明日は早起きして遊びに行こう.」
というなりゆきで,珍しく日曜の朝から二人でつれだって来たというわけ.
朝はといっても,待ち合わせは結局10時まで延長された.
秋口の晴天で気持ちが良いはず,飲んでいなければ.
そのせいか,美術館を出ると観光客が今日はとりわけ多いようだ.
すぐそこの兼六公園はいわずと知れた観光名所だし,
金沢城では二の丸御殿の復元が始まり,つい先日部分的に公開が始まったところだった.
このあたりは華やいだ空気に満ちていた.
「観光さん,すごいね.」
「ほやね.」
昨晩2時まで飲んでいた二人にとっては,その賑やかさはちょっとしんどい.
スクランブルの交差点を渡って広坂を登る.
うっそうとした木立が覆う坂の途中,石浦神社を過ぎたあたりで右側の石段に入る.
と,途端に静かになる,つい先までの宣騒がウソのよう.
木々が生い茂り昼間でも暗い.
この道は,御観光さんはほとんど通らないし,この街の人もあまり利用しない.
はっきり言えば,何にもないんだけど.
何にもないとはいえ,石段を登りきると,木々に囲まれた洋館がひっそりと建っている.
もとは陸軍第九師団長の公邸で,今は休憩所として誰でも入ることができる.
優雅なつくりの応接間に入ると,ソファに座ってのんびりする.
少し古びたソファは豪奢な部屋に相応しいとはいえないが,
私たちには充分に上等なもので,フカフカだ.
部屋の中には,やはり,他のお客さんはいない.
ここは二人にとって,隠れ家というか逃げ場のような場所として重宝していた.
「あと,ひと一月か,」
私は自分に確認するように,声に出してみた.
道路をはさんで向かいにある兼六図書館が,お城の中に移転する.
同時に休憩所も改修されるため,しばらくは入れなくなる.
「じゃ,今日はここで一日ぐうたらしよう.」
若い女の子が,こんな所でひきこもりなんて,
「もう女の"子"じゃ,ないよ〜.」
マサキにツッコまれた.
小1時間ほど休んでから,遅めの昼ご飯を食べに向かった.
蕎麦か饂飩にしよう,ということで一致したけれど,
寿限無か砂場か,というところで意見が分かれた.
そんな秋の日だった.
■ 物語は始まらない 5
私には,3つ下の妹と4つ下の弟がいる.
小さい頃からその二人の面倒を見てきたせいか,私は両親に甘えるのがどうも苦手だ.
それでなくても,性格の方は不器用な父の血を濃く引いているのか,父母にあまり素直になれない自分がいる.
普段はとても健康で,本当にまれな風邪をひいた日は,だから私には特別だった.
その時だけは,臆することなく,母を独り占めにできた.
直りがけには必ず作ってもらったのが,「温っためた牛乳」だった.
冷めないうちに飲んでしまおうと焦るのだけれど,
熱いので息をかけて冷ましながら,少しずつ飲む.
母はそんな時,私が飲み終わるまで,必ず側で見ていてくれた.
それはいつも作ってくれる「温っためた牛乳」とは違い,とても甘く,やさしい味がした.
実は,風邪の時だけハチミツを少し入れたのだということを,私は後になって知った.
ホットミルクを作る時は,少しだけ儀式めいた所作が必要になる.
冷蔵庫から牛乳パックを取り出す,
マグカップで計量してミルクパンにあける.
角砂糖を1個ないし2個入れる,時々は黒糖でもいい.
ゆっくりと弱火にかける,けれど,目を離してはいけない.
ほんの少しでも泡が立つと,すぐさま火を止めなければならない.
「あんたはトロいさけ,特にねぇ.」
とチハちゃんに言われるので,ミルクを温めている間はそれに集中する.
もともとホットミルクが好きなので,よくミルクをレンジでチンしていた.
そんな気軽なものだったのが,変わったのが去年の誕生日から.
誕生日のプレゼントに,チハちゃんが送ってくれたのがミルクパンだったからだ.
その日から,彼女の指導のもと(?),ミルクパンが活用されることになる.
ミルクパンで作るホットミルクはいつも二人分.
テーブルに用意してある,お湯を注いで温めたマグカップも,二つ.
秋と冬の夜は寒くて長いけれど,
ホットミルクのある夜は,いつもよりちょっと短い.
■ 旅に出る
波に揺られて,小さな船は大きく揺れていた.
船はゆっくりと走り出す.
波の上をバウンドしながら,だんだんと速さを増す.
やがて,飛行艇は水面を離れた.
防音の機体を通して,
小さなエンジンはゆっくりと声をあげていった.
熱核エンジンが人の住む島へ向かないように進むため,
私達の島を望むことはできない.
眼下に見えるのは,水平線までつきることのない海だけだ.
空は,青から紺へ,そして群青へと変わっていく.
エンジンの音が低い領域から,次第に高くなり,やがて可聴域を超えたころ,
名前のない多くの色を経て,漆黒の闇が上半球を覆った.
下半球には一面の海をたたえた星.
私が生まれ育った小さな惑星がひろがっていた.
上に向かって落ちていくような錯覚が襲った.
このときのためにみつあみにした髪が目の前で浮かびあがる.
乗客は私一人.
この星は海水面が地表の95%に達する.
人口の少ない星では軌道エレベータもダイソンリングも設営されない.
だから,恒星間連絡線は惑星軌道上まで接近して,軌道上で地上往還機と接続する.
小さいころ,修学旅行で軌道へ上がったことがある.
そのときは皆で,星を眺めた,楽しい思い出だ.
今日,私はこの星を離れる.
半年の遊学,数光年先の世界へ.
■ 物語は始まらない 6
大学の一般教養というモノは,奇妙なものだ.
理学部での英語の講義なんかは適当でもいいらしい.
今期のクラスの課題は「ファッセンデンの宇宙」という短篇小説だ.というかSFだ.
これは,先生の好みでやっているのだろうか.
いつものように飲みに行って,このことをマサキに話していたせいか,
その帰り道には変なことを考えていた.
チハちゃんの宇宙は,とても豊かな世界だろう.
彼女は本をたくさん読む.
色んな世界を知っている.
私に話してくれるものだけでも,びっくりするっくらい多彩だけれども,
それ以外にも,それ以上に多くの世界を知っているのだと思う.
チハちゃんは良く気がつく.
道を歩いていても,私には気がつかない鳥や木や虫や,
何でも見つけて感じているようだ.
ふと会話が途切れたときに,
彼女の視線を追っていると,それは色んなものを見ているようだ.
チハちゃんのメガネは,私の知らない,見えない,世界を見ているのだろう.
少し,うらやましい.
私の宇宙は?
多分,水たまりに映った星空のよう.
小さなもの,一部分の写しにすぎないけれど,
それでも私だけの宇宙.
一滴の水つぶてで壊れてしまう.
短い一生のはかない世界かな.
一つの生命は一つの宇宙.
マサキもいつか結婚して人の親になるのだろう.
自分が結婚するなんて想像できないが,
マサキがお母さんになることは容易に目に浮かぶ,おそらく誰にでも.
それがマサキの性質だ.
その子らも,やがてまた人の親となり,
増えてゆくその血筋は,それが一つの宇宙.
それがマサキの宇宙なのだろう.
そのことがとても自然に思える反面,
自分には叶わないように感じられるのは,何故だろう.
街灯で少し薄くなっているけれど,満天の星空の下.
マサキは,小さな水たまりを見て何か考えている風.
あんたって,なんだかねぇ.
飲んだ帰り道に変なことを考えているのは,いつものことなんだけど.
■ 物語は始まらない 7
「計量,って何だかズルい気がするの」
と云ったらチハちゃんに鼻で笑われた.
練った挽き肉からお団子を作る.
左右の手でキャッチボールをしながら空気を抜く.
平たく伸ばして一個ずつラップで包む.
いつも最後に半端な量が残ってしまう.
小さなやつが一個か二個どうしてもできてしまう.
その小さなハンバーグは,味見用としてそのまま焼いて食べるのだ.
証拠隠滅のためじゃない.
チハちゃんはしょっちゅう家で料理を作っているという.
お母さんが作ってくれるのに,それを手伝っている.
「嫌いじゃないから」
彼女にしてはネガティブな言い方だ.
もともと,そんなに料理をしない私だけど,
チハちゃんと遊ぶようになってから,
(というか飲みにいくようになってから,)
時々だけど,料理を教えてもらうようになった.
「性格がO型」と言われる私は,やはりO型だ.
血液型のせいにするわけではないけれど,
非常に大雑把な性格だ,自覚はしている.
面倒くさいとは思わないのだけれど,
なんでも目分量でやってしまう.
だから,同じ料理を作っても,作る度に味が変わる.
「当たり前だ」とチハちゃんにはダメ出しされる.
彼女が作る料理も,味付けはいつも同じではない.
けれど,カボチャの煮付けを作ると,
カボチャが美味しいときはいつも以上に美味しい.
感覚的なのね,とチハちゃんがフォローしてくれた.
どうやら私は計量スプーンや計りを信用していないらしい.
そうなのか,そうだろうな.
彼女に言われると妙に納得してしまう.
チハちゃんは何でも私のことを言い当ててしまうから.
さて,どうしようか.
晩にチハちゃんが来るまでに考えておかないと.
いつもと同じ材料で作ったハンバーグが,
たった8個になってしまった理由を.
■ 物語は始まらない 8
自転車に乗っていた.
カタンと小さな音がして,そのまま後輪が動かなくなった.
面倒くさいことになったな,と私は思った.
私の自転車はちょっと変わっている伯父からもらったものだ.
この場合,「ちょっと変わっている」のは自転車はもちろんのこと,
伯父さんも含んでいる.
4年ほど前のこと.
この三角形をした自転車を初めて見たとき,
私は深い意味もなく「カワイイ」と口にした.
それを聞いた伯父さんは,気前よくこの自転車を私に譲ってくれた.
伯父さんは10台近く自転車を持っていて,
その内の一台くらいどうってことないのだろう,くらいに私は軽く考えていた.
家に帰ると,私は思っても見なかったが,ママが困った顔をした.
「兄さんに自転車をもらうとはねぇ...」
結局,返しに行くまにでは至らなかったが,
「何かあったら,あなたが面倒見るのよ.
ママは知らないからね.」
と念を押された.
というより,むしろ,約束させられた.
半年ほどたって,私はようやくそのことの意味を知った.
パンクした自転車を近所の自転車屋へ持っていったら,
「この自転車は,修理できないよ」と言われた.
何だか改造してあるらしく,部品が既製品ではないらしい.
自転車を手でおして伯父さんの家へいった.
このことを伯父さんに話すと,
したり顔で「そりゃそうだ」というようなことを言われた.
自転車はその場ですぐに直してくれたが,その間ずっと,
1時間近く,この自転車の講義を聞くことになった.
ケブラーチェーンがどうとか,
後輪に内蔵された遊星ギアの変速機がどうとか.
帰り道で,ママが言っていたのはこのことだったのかな,と思い出した.
伯父さんはずっと高岡市に住んでいて,
私は2年前から金沢に住んでいる.
自転車が壊れたことを連絡すれば,
伯父さんは仕事が終わるとすぐに車でやってくるだろう.
そして,すぐに直してくれるだろう.
自転車大好きの伯父さんにとっては,
「壊れた自転車を直す」ことさえも楽しみなのだから.
それがかえって,私の気を重くする.
私には,交通手段はこの自転車しかない.
今月は仕送りの残り具合がキビしいので,バスに乗るのも避けたいところ.
しょうがないので,伯父さんにメールしておいた.
5分もせずに「今夜行く」とリプライがきた.
伯父さんはまだ仕事中のはずなのだけど.
その夜,長い話と自転車修理が終わったあと,
伯父さんが言った.
「マサキちゃん,これからしばらく気をつけてね.
オムスビが調子悪くなると,何かややこしいことが起こるからなぁ.」
伯父さんはこの自転車をオムスビという.
この自転車に乗る人はオムスビ海苔だ.
そういえば,前にパンクしたすぐ後に,
私は足を骨折して部活を一ヶ月も休まなくてはならなかった.
オムスビは無事だったけれど.
そして実際,その後に起こった一連の出来事は,いかにもややこしいことだった.
■ 布団乾燥器の夢
日曜の夜は寒かったので、
風呂を炊いてゆっくり浸かり、
布団乾燥器をかけた布団に入って寝た。
北陸の冬は湿っぽい。
ていうか、一年中湿っぽい。
だから、布団乾燥器はトテモありがたい存在だ。
世の中は不景気で、将来は不安だらけだ。
けれど、もし、幸せへの近道があるとしたら、
そこにはきっと、布団乾燥器があるだろう。
■ 物語は始まらない 9
その日は朝から秋晴れで、空が青く高かった。
四講目が急に休講になったので、同じ授業を取っている私とマサキは時間を持て余した。
校舎から一歩外へでると、吹く風が顔に冷たい。
日が傾き始めると秋の空気は一気に冷えてくる。
どちらから言うでもなく、すぐ目の前の生協の喫茶店に入ることにした。
小綺麗だけど、ちょっと古びた感じの店内は気兼ねなくくつろぐにはもってこいだ。
街中のいわゆる小洒落たお店というのは、何とはなく気が張ってしまって落ち着けない。
マサキは紅茶を、私はココアを注文する。
ココアは好きだけど、手間がかかるので自分ではあまり作らない。
だから、こういうお店に入ったときには遠慮せずに味わう。
もっと本格的な喫茶店では、本当においしいココアが味わえるが、
この喫茶店のココアも丁寧に作られた味がする。
何でもない話をして小一時間ほどヒマをつぶした後、私たちは店を出た。
母へケータイすると、
「いい魚でもあったら、買ってきて」と言われた。
今日の夕食にはタンパク質が足りないって。
城南ストアに入って鮮魚コーナーへ向かう。
途中の牛や豚は素通りする、
最近はどんどん値段が上がっていくのでなかなか手がでない。
鶏もそんなに安くはない。
結局、養殖のアジを五尾買った。
少し残ってもアジならなんとかなるだろう。
玄関をくぐると、肉ジャガのいい匂いが鼻をくすぐる。
そっか、こないだもらったジャガイモが少なくて、
肉ジャガだけではおかずが足りなくなったんだ。
「ただいま」
だったら他のおかずにすればいいと思うのだけれど。
母は、それでも肉ジャガを作る人だ。
食べたい、作りたい、と思ったら後先考えずに作り始めてしまう。
そして私は足りないものを買いに行かされる。
自然と、家へ帰る前に私は母に電話をするようになった。
台所に入って手を洗う。
ちょうど母がカボチャを切り終えたので、包丁を借りる。
出刃包丁はまな板の上に置かれ、私はそれを手に取る。
この家では、絶対に刃物を手渡ししない。
それはもともと母の実家のルールだったらしい。
どちらかというと「ゆるい」母と我が家だけれど、
このルールだけは母が徹底して守らせている。
買ってきたアジを三枚におろすのは私の役目。
私は母から魚の扱い方を教わったが、
母は私にそれを教えて以来、自分で魚をさばくことを一切しない。
三枚におろした骨身から中落ちをスプーンで丁寧にとる。
身が付いていると火が通りにくい。
炊飯器が鳴って、カボチャも煮えたようだ。
母はお味噌汁の準備を始める。
アジは酢漬けにした。
グリルにいれたアジの骨は10分ほどで焼ける。
少し焦げ目がつくくらいが香ばしくて丁度いい。
母と私はボリボリとかじりながら、夕食の支度を続ける。
アジせんべい、は決して晩ご飯の食卓にはのぼらない。
これはそういうものだ、とは母の弁だ。
■ 物語は始まらない 10
せっかくの日曜は雨。
この一週間は降り通しだ。
梅雨だから、といってしまえばしょうがない。
今日は珍しく早くに目が覚めた。
6時だけどもう明るい。
朝ご飯は簡単に、
冷ご飯に、菜っ葉のお浸し、卵焼き。
カブラの浅漬け。
10分ほどで終わる。
しばらく文庫本を読む。
2、3時間たった。
洗濯機を回す、40分ほど本の続きを読む。
洗濯物を部屋の中に干す。
紐を張って、ワイヤーのハンガー
部屋いっぱいに湿気が広がる。
Tシャツにドライヤーを充ててみる。
気温は高いので、ちょっとあてると、そこはすぐに乾いていく。
すぐに諦めた。
湿気が増しただけだった。
扇風機をかけて、せめてもの抵抗を試みる。
お昼ご飯はチャーハン。
教育テレビを見ているうちにうとうとする。
そのまま昼寝。
蒸し蒸しして目が覚める。
ちょっと汗ばんでる、首筋が機持ち悪い。
6時すぎになって、スーパーへ行く。
クーラーの効いた店内は気持ちいい。
晩ご飯を何にしようかゆっくりと考えながら、買い物を楽しむ。
店から出ると、とたんに現実にひき戻される。
しかし、部屋に戻ると更に湿気がこもっている。
夜になり、雨は小ぶりになる。
かすかな雨音を効きながら、眠りにつく。
■ 物語は始まらない 11
何事にも不文律があり、
それを破ることは時には大きな痛手を被ることになる。
昼ご飯を食べようと思い、
キッチンへ行き冷蔵庫の上のフランスパンを手にした。
そうだ、オープンサンドにしよう。
こないだチハちゃんに教えてもらった煮豚がまだ残ってた。
まだ味付けをしてない煮豚を薄切りにして使おう。
フランスパンを包丁でスライスする。
一枚かじってみるが、まだ少ししっとりしている。
中サイズのトマトを輪切りにして、...
でもレタスがない。
替わりになるものはないかと探してみるがキュウリもない。
それよりも、味付けはどうしよう?
煮豚に合わせて醤油かける、これは違う。
ケチャップとソースで簡単デミグラス、ちょっとクドいかな?
と悩んでいたら、助け船がやってきた。
キッチンへ入るなり、惨状を目の当たりにしたチハちゃんは、
「こないだのアレ、まだ余ってる?」
何かと聞いたら、
「野沢菜のお漬物」
...
チハちゃんから聞かされた、素人が料理でやってはいけないこと、それは、
「和洋中は混ぜたらダメ」
私が具材を余らせたり、何か足りないと、
「いつも買い物する時に何を使って作るか考えなさい」と言われてしまう。
野沢菜を軽く水切りして、一本味見してみる。
「何とかなるでしょ」
とチハちゃんは言った、ちょっと呆れたような体ではあるが。
フランスパンに野沢菜を並べ、
その上に角煮、トマトを重ねる。
「チーズだとピザみたいだから、バターは無い?」
最後の一欠片だけ、乗っけた。
しようがないので、他のものにはスライスチーズを乗せた。
チハちゃん味付けは?
「そうねぇ...コショウだけでいいじゃない?」
そっか、野沢菜に塩味があるから、
あんまり味付けはくどくしないほうがいいかも。
最後にチハちゃんは自分のカバンから紙袋を取り出した。
タイムを開封して、すこーし振りかけた。
こんなこともあろうかと?
ではなくて、たまたま切れたので買って帰るところだったそうだ。
「このタイム、マサキにあげるよ」
鳥なんかは塩、コショウ、タイムだけでけっこう雰囲気が出る。そうだ。
オーブンで10分ほどサンドを焼く、ちょっと焦げ目が付くくらい。
挽いておいたコーヒーは止めて,飲み物は紅茶にした。
二人で食べてみたが、そんなに悪くない。
「何とか形にはなったんじゃない。」
チハちゃんから及第点をもらった。
でも食パンとかローストビーフだとかだとこうはいかなかったかな。
最後にやはりチハちゃんは言った。
「和洋折衷とか考えたらダメよ、買い物する時にちゃんと考えてね。」
実は私はこの味をけっこう気に入った。
これをもう少し工夫して私のレパートリーに加えようと思ったことは、
当分の間はチハちゃんには秘密だ。
|