学生時代に社会学の先生に聞いたお話。
簡単に言うと、社会学において個人の「自我」について極論すると二つの立場があり、
・自我の集合が社会を構成する。
・社会が個人の行動を決定する (自我は存在しない。)
その両極の間に現代の社会学がある、ということでした (20数年前)。
考えてみれば自我というのは抽象的な概念であり、科学的に存在するか否かを問うべきものではありません。
日常では「自我が存在する」と仮定して思考・行動することが有用であるため、そのように利用しているものですね。
このように現実、特に日常生活においては前提として当たり前だと思っていることが、単に相対的なものであったり、利便的に使われているにすぎないことがままあります。
ゆえに論理的あるいは科学的に物事を考える場合においては、どこを起点にして論理を構築するかということが肝要。
その意味で、私は数学(狭義では記号論理学)が唯一そのことを自覚的に扱われている学問でした。
さて、日常はそんな不明瞭な仮定やルールに満ちあふれているわけですが、だからこそ簡単にひっくり返ることが起こり得るのでしょう。
特に近代になるほど、科学的という言葉が、かつて「神様がそう言ってから」という意味に置き替わりがちです。
科学が神話化し、容易に科学神話が成り立つ世の中になっているようです。
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西尾維新 悲痛伝 ISBN 978-4-06-182855-1 [ honto / amazon / 国会図書館サーチ ] |
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西尾維新 悲鳴伝 ISBN 978-4-06-182829-2 [ honto / amazon / 国会図書館サーチ ] |
そこで、悲鳴伝/悲痛伝です。
この英雄譚の主人公は徹底的に受動的な人間です。
著者もその点に力を割いており、そのため一見この小説は非常に読みにくい展開をしています。
もちろん技術的にはすらすらと読ませてくれる文章です。
例えば、ほんの一瞬の描写に数ページを使って述べるような展開が至るところで現れます。
というかそのような描写が大部分を占めています。
その主人公が戦う相手が「地球」。
上記の社会学における自我の意味では、主人公はいわば人間社会の総意としての自我の現れととれなくもない。(ちょっと苦しいかな?)
そして、人の形をとった地球と主人公との会話がちょっとだけ出てきます。
はじめ(いろいろな意味で)笑いました。
ガイア仮説というものを知らないで言うのもなんですが、これは一個の生命として捉えるものであり、一個の人格と考えるのは間違いだろうと。
先の対話は、言わば脳と脳細胞の会話に当たるものであり、その事自体に意味がない。
著者は何かいろんな物をひっくり返そうとしているのではないでしょうか。
もちろん私の読み方でありますが。
主人公らが使う武器は高度な科学技術を用いたものです。
A.C.Clarkeの未来予測の第3法則「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない。」が何度か引用されています。
しかしながら、「悲鳴伝」の途中で何気なく挟まれた引用。
「高度に発達していない魔法なら科学に見えるかもしれない」
最初に読んだときはスルーしていました。
しかしこれ、「悲痛伝」のフリになっていたんですね。
このフリがどこまで膨らんでいくのか楽しみです。
そうか、悲鳴伝/悲痛伝はSFと呼んでもいいのかもしれない。
■追記 2013. 3. 4
A.C.Clarkeの第3法則について、 第3法則 にまとめました。