物語は始まらない 2

「アルクトゥールスの小石」という心理学用語がある.
アルクトゥールスは太陽から36.7光年離れた恒星で,
その周りを回っている地球型惑星が一つ巡っている.
その星の赤道に沿って山脈があり,
その端の一方に小さなクレーターの中央近くに小さな頂が見える.
そのふもと,塵が一面に積もる平野に一個の石コロが転がっている.
その石は,ちょうど卵くらいの大きさでやや偏平な形をしている.
色は少し緑がかった灰色,重さは見た目ほど.
手の中で転がすのに良いくらいの手触りだ.
誰も見たこともない,実際にあるのかも分からない石.
しかし,一度それを認識することによって,それはある程度の存在感を持ちうる.
要は,ひとの心の中での存在感というものは実在の存在感とはしばしば無関係である,ということらしい.
「アルクトゥールスの小石」という社会学用語があった.
チハちゃんから聞いたこの話は,その実全くの作り話だった.
彼女と話をするようになったのには特に理由もなく,
なんとなく友達になっていったように思う.
出会って間もないころに,私はチハちゃんからこの話を聞いた.
かなり真面目な性格の,まだ充分親しくなかった彼女の話を,
私は疑うことなど考えもしなかった.
ついこの間,何かの折に「小石」の話をチハちゃんにした.
「チハちゃんから聞いたのよ」
という私に彼女は怪訝そうな顔をして,
それから,何かに気がついたようすで,そのままチハちゃんは突っ伏した.
肩を震わせて,そして,笑っていた.
私は,ようやく騙されたことに気がついて頭に血が昇る一方,
はじめて見るチハちゃんの大爆笑(?)に驚いてもいた.
何が何だか分からなく,というより,どうでもよかった.
そして最後は,つられて一緒に笑っていた.
長い笑いがようやく収まってから,チハちゃんは私に謝った.
「でも,何でそんなこと言ったんだろ」
彼女らしくないその些細なウソは,チハちゃんにも出どころが分からないらしい.
私にはなおさらだ.
それが何だったのかは,今でも良く分からない.
ただ困ったことに,味を占めたチハちゃんが,
それから時々小さなウソを言うようになってしまった.
私がかなりだまされやすいせいなのかしら.