物語は始まらない 9

その日は朝から秋晴れで、空が青く高かった。
四講目が急に休講になったので、同じ授業を取っている私とマサキは時間を持て余した。
校舎から一歩外へでると、吹く風が顔に冷たい。
日が傾き始めると秋の空気は一気に冷えてくる。
どちらから言うでもなく、すぐ目の前の生協の喫茶店に入ることにした。
小綺麗だけど、ちょっと古びた感じの店内は気兼ねなくくつろぐにはもってこいだ。
街中のいわゆる小洒落たお店というのは、何とはなく気が張ってしまって落ち着けない。
マサキは紅茶を、私はココアを注文する。
ココアは好きだけど、手間がかかるので自分ではあまり作らない。
だから、こういうお店に入ったときには遠慮せずに味わう。
もっと本格的な喫茶店では、本当においしいココアが味わえるが、
この喫茶店のココアも丁寧に作られた味がする。
何でもない話をして小一時間ほどヒマをつぶした後、私たちは店を出た。
母へケータイすると、
「いい魚でもあったら、買ってきて」と言われた。
今日の夕食にはタンパク質が足りないって。
城南ストアに入って鮮魚コーナーへ向かう。
途中の牛や豚は素通りする、
最近はどんどん値段が上がっていくのでなかなか手がでない。
鶏もそんなに安くはない。
結局、養殖のアジを五尾買った。
少し残ってもアジならなんとかなるだろう。
玄関をくぐると、肉ジャガのいい匂いが鼻をくすぐる。
そっか、こないだもらったジャガイモが少なくて、
肉ジャガだけではおかずが足りなくなったんだ。
「ただいま」
だったら他のおかずにすればいいと思うのだけれど。
母は、それでも肉ジャガを作る人だ。
食べたい、作りたい、と思ったら後先考えずに作り始めてしまう。
そして私は足りないものを買いに行かされる。
自然と、家へ帰る前に私は母に電話をするようになった。
台所に入って手を洗う。
ちょうど母がカボチャを切り終えたので、包丁を借りる。
出刃包丁はまな板の上に置かれ、私はそれを手に取る。
この家では、絶対に刃物を手渡ししない。
それはもともと母の実家のルールだったらしい。
どちらかというと「ゆるい」母と我が家だけれど、
このルールだけは母が徹底して守らせている。
買ってきたアジを三枚におろすのは私の役目。
私は母から魚の扱い方を教わったが、
母は私にそれを教えて以来、自分で魚をさばくことを一切しない。
三枚におろした骨身から中落ちをスプーンで丁寧にとる。
身が付いていると火が通りにくい。
炊飯器が鳴って、カボチャも煮えたようだ。
母はお味噌汁の準備を始める。
アジは酢漬けにした。
グリルにいれたアジの骨は10分ほどで焼ける。
少し焦げ目がつくくらいが香ばしくて丁度いい。
母と私はボリボリとかじりながら、夕食の支度を続ける。
アジせんべい、は決して晩ご飯の食卓にはのぼらない。
これはそういうものだ、とは母の弁だ。