東北関東大地震について

2011年3月11日 午後3時過ぎ、
東北三陸沖を中心に大規模な地震が起こり、
多くの方が亡くなられました。
この場を借りておくやみ申し上げます。
また、多くの方が被災され、
おそらく長期間に渡ってその影響を受けるだろうと想像されます。
私にできることは義援金に協力するくらいですが、
小さな範囲でもできることをしようと思います。
この2日ほど報道を見ていて何点か気になったことがあるので、
ここで書いておこうと思いました。
1. Facebook信仰が壊れる
チュニジアの政権崩壊以降脚光を浴びているのは周知のことですが、
このFacebookの悪い面が表れるのではないかと危惧しています。
言い換えると、Facebookに対する過度の期待/信頼が壊れるだろうと思います。
Facebook上でのチェーンメールが心配です。
「Facebookは相手の顔が見えているから安心」というのはウソです。
ニュースはその情報源とセットで評価する、というのは情報の当たり前のこと。
「あの人の言うことだから、話半分に聞いておこう」という判断は日常的にやっていると思います。
かつて電子メールの普及期にチェーンメールが問題になりましたが、
それも過度の期待/信頼が前提にあったと思います。
また、メディアに依らず、人の善意が裏目に出るという事態は、
過度の反発を招くのではないかと心配です。
Facebookは「友達の友達」へと自動的に情報が送られる場合があります。
都市伝説は、明らかに事実ではないコトが「友達の友達」の言として伝わります。
Facebookを基板にした都市伝説というのは既に生まれていると思うし、
そういうものだと認識して利用しないとFcaebookは危ういものだと考えています。
2. 原子力発電を再考する
よく建築物の耐震基準で「100年に一度の災害」という言葉を聞きます。
「何万年に一度の災害、など考えるとキリがない」それだけを聞けば正しいような気もします。
しかし、これは誰かが社会的(刑法的)責任をとることに基づく考えではないでしょうか。
仮に最悪の炉心溶融が起きた場合どうなるでしょうか?
数万年の間、その周辺は閉鎖され人の入れない地域ができます。
# これは数千年か、数百年かも知れませんが、今のところ誰にも正確には分かりません。
野生生物は完全に制御できないので、
その周囲に緩衝地帯を設け、常に放射線に注意しながらの生活が続くでしょう。
誰が責任をとるかという価値基準で図る問題ではないと思います。
地方自治体には、次のような判断、決定をする考え方・権利が必要ではないでしょうか。
「原子力発電所は造らせない、ただしそのために電力供給量が少なくなってもかまわない」
3. 歴史から学ばない
これは今回の地震報道に限ったことではないのですが、
情報化が叫ばれ、インターネットが普及し始めてから、
情報の軽薄短小化が進み、どんどん刹那的になっているように感じます。
「時代の変化が激しくなり先のことが見えない」その通りでしょう。
しかし、歴史上「先が見える」時なんてなかったと私は思います。
私たちが知っている歴史は、いわゆる「事件史」で、
その時々の事件をピックアップして見ているもの。
私達が見てすんなり事が運んでいるように見えても、
当事者にとっては試行錯誤の結果、場合によっては偶然の産物だったかも知れません。
かつての歴史感は、現在を挟んで過去と未来は対称でした。
ローマのような文明も滅び、新たな文明が繰り返し興っては消える。
近代科学が普及して以降、ダーウィニズムが広まってから、
歴史観は「右肩上がり」一色になったような気がします。
科学は魔法ではなく手段に過ぎません。
その時々の社会の影響を受けて科学のパラダイムも変化します。
それは必ずしも拡張・発展するものではなく、興味の対象を変えているだけのように見えます。
私が大学で数学を学んでいた時に感じたことです。
私が歴史から感じたことは、
人は生涯で知恵を蓄積し、だんだん賢くなっていく(一般論)のに対して、
「人の集まりとしての社会は、驚くくらいに何度も同じ失敗を繰り返す」ことです。
いまだに世界では莫大な軍事費を使っていることだけを見ても。
私は「新しいアイデア・考え方」といわれて世に出るものの、
ほとんどは過去のそれの焼き直しじゃないかと感じています。
オリジナリティについて責めているのではなく、
過去から学べることが非常に多くあるという意味です。
上記の1, 2についても歴史から学べることが多々あるのではないかと思います。