物語は始まらない 8

自転車に乗っていた.
カタンと小さな音がして,そのまま後輪が動かなくなった.
面倒くさいことになったな,と私は思った.
私の自転車はちょっと変わっている伯父からもらったものだ.
この場合,「ちょっと変わっている」のは自転車はもちろんのこと,
伯父さんも含んでいる.
4年ほど前のこと.
この三角形をした自転車を初めて見たとき,
私は深い意味もなく「カワイイ」と口にした.
それを聞いた伯父さんは,気前よくこの自転車を私に譲ってくれた.
伯父さんは10台近く自転車を持っていて,
その内の一台くらいどうってことないのだろう,くらいに私は軽く考えていた.
家に帰ると,私は思っても見なかったが,ママが困った顔をした.
「兄さんに自転車をもらうとはねぇ…」
結局,返しに行くまにでは至らなかったが,
「何かあったら,あなたが面倒見るのよ.
ママは知らないからね.」
と念を押された.
というより,むしろ,約束させられた.
半年ほどたって,私はようやくそのことの意味を知った.
パンクした自転車を近所の自転車屋へ持っていったら,
「この自転車は,修理できないよ」と言われた.
何だか改造してあるらしく,部品が既製品ではないらしい.
自転車を手でおして伯父さんの家へいった.
このことを伯父さんに話すと,
したり顔で「そりゃそうだ」というようなことを言われた.
自転車はその場ですぐに直してくれたが,その間ずっと,
1時間近く,この自転車の講義を聞くことになった.
ケブラーチェーンがどうとか,
後輪に内蔵された遊星ギアの変速機がどうとか.
帰り道で,ママが言っていたのはこのことだったのかな,と思い出した.
伯父さんはずっと高岡市に住んでいて,
私は2年前から金沢に住んでいる.
自転車が壊れたことを連絡すれば,
伯父さんは仕事が終わるとすぐに車でやってくるだろう.
そして,すぐに直してくれるだろう.
自転車大好きの伯父さんにとっては,
「壊れた自転車を直す」ことさえも楽しみなのだから.
それがかえって,私の気を重くする.
私には,交通手段はこの自転車しかない.
今月は仕送りの残り具合がキビしいので,バスに乗るのも避けたいところ.
しょうがないので,伯父さんにメールしておいた.
5分もせずに「今夜行く」とリプライがきた.
伯父さんはまだ仕事中のはずなのだけど.
その夜,長い話と自転車修理が終わったあと,
伯父さんが言った.
「マサキちゃん,これからしばらく気をつけてね.
オムスビが調子悪くなると,何かややこしいことが起こるからなぁ.」
伯父さんはこの自転車をオムスビという.
この自転車に乗る人はオムスビ海苔だ.
そういえば,前にパンクしたすぐ後に,
私は足を骨折して部活を一ヶ月も休まなくてはならなかった.
オムスビは無事だったけれど.
そして実際,その後に起こった一連の出来事は,いかにもややこしいことだった.

物語は始まらない 7




「計量,って何だかズルい気がするの」
と云ったらチハちゃんに鼻で笑われた.
練った挽き肉からお団子を作る.
左右の手でキャッチボールをしながら空気を抜く.
平たく伸ばして一個ずつラップで包む.
いつも最後に半端な量が残ってしまう.
小さなやつが一個か二個どうしてもできてしまう.
その小さなハンバーグは,味見用としてそのまま焼いて食べるのだ.
証拠隠滅のためじゃない.
チハちゃんはしょっちゅう家で料理を作っているという.
お母さんが作ってくれるのに,それを手伝っている.
「嫌いじゃないから」
彼女にしてはネガティブな言い方だ.
もともと,そんなに料理をしない私だけど,
チハちゃんと遊ぶようになってから,
(というか飲みにいくようになってから,)
時々だけど,料理を教えてもらうようになった.
「性格がO型」と言われる私は,やはりO型だ.
血液型のせいにするわけではないけれど,
非常に大雑把な性格だ,自覚はしている.
面倒くさいとは思わないのだけれど,
なんでも目分量でやってしまう.
だから,同じ料理を作っても,作る度に味が変わる.
「当たり前だ」とチハちゃんにはダメ出しされる.
彼女が作る料理も,味付けはいつも同じではない.
けれど,カボチャの煮付けを作ると,
カボチャが美味しいときはいつも以上に美味しい.
感覚的なのね,とチハちゃんがフォローしてくれた.
どうやら私は計量スプーンや計りを信用していないらしい.
そうなのか,そうだろうな.
彼女に言われると妙に納得してしまう.
チハちゃんは何でも私のことを言い当ててしまうから.
さて,どうしようか.
晩にチハちゃんが来るまでに考えておかないと.
いつもと同じ材料で作ったハンバーグが,
たった8個になってしまった理由を.

物語は始まらない 6

大学の一般教養というモノは,奇妙なものだ.
理学部での英語の講義なんかは適当でもいいらしい.
今期のクラスの課題は「ファッセンデンの宇宙」という短篇小説だ.というかSFだ.
これは,先生の好みでやっているのだろうか.
いつものように飲みに行って,このことをマサキに話していたせいか,
その帰り道には変なことを考えていた.
チハちゃんの宇宙は,とても豊かな世界だろう.
彼女は本をたくさん読む.
色んな世界を知っている.
私に話してくれるものだけでも,びっくりするっくらい多彩だけれども,
それ以外にも,それ以上に多くの世界を知っているのだと思う.
チハちゃんは良く気がつく.
道を歩いていても,私には気がつかない鳥や木や虫や,
何でも見つけて感じているようだ.
ふと会話が途切れたときに,
彼女の視線を追っていると,それは色んなものを見ているようだ.
チハちゃんのメガネは,私の知らない,見えない,世界を見ているのだろう.
少し,うらやましい.
私の宇宙は?
多分,水たまりに映った星空のよう.
小さなもの,一部分の写しにすぎないけれど,
それでも私だけの宇宙.
一滴の水つぶてで壊れてしまう.
短い一生のはかない世界かな.
一つの生命は一つの宇宙.
マサキもいつか結婚して人の親になるのだろう.
自分が結婚するなんて想像できないが,
マサキがお母さんになることは容易に目に浮かぶ,おそらく誰にでも.
それがマサキの性質だ.
その子らも,やがてまた人の親となり,
増えてゆくその血筋は,それが一つの宇宙.
それがマサキの宇宙なのだろう.
そのことがとても自然に思える反面,
自分には叶わないように感じられるのは,何故だろう.
街灯で少し薄くなっているけれど,満天の星空の下.
マサキは,小さな水たまりを見て何か考えている風.
あんたって,なんだかねぇ.
飲んだ帰り道に変なことを考えているのは,いつものことなんだけど.

旅に出る

波に揺られて,小さな船は大きく揺れていた.
船はゆっくりと走り出す.
波の上をバウンドしながら,だんだんと速さを増す.
やがて,飛行艇は水面を離れた.
防音の機体を通して,
小さなエンジンはゆっくりと声をあげていった.
熱核エンジンが人の住む島へ向かないように進むため,
私達の島を望むことはできない.
眼下に見えるのは,水平線までつきることのない海だけだ.
空は,青から紺へ,そして群青へと変わっていく.
エンジンの音が低い領域から,次第に高くなり,やがて可聴域を超えたころ,
名前のない多くの色を経て,漆黒の闇が上半球を覆った.
下半球には一面の海をたたえた星.
私が生まれ育った小さな惑星がひろがっていた.
上に向かって落ちていくような錯覚が襲った.
このときのためにみつあみにした髪が目の前で浮かびあがる.
乗客は私一人.
この星は海水面が地表の95%に達する.
人口の少ない星では軌道エレベータもダイソンリングも設営されない.
だから,恒星間連絡線は惑星軌道上まで接近して,軌道上で地上往還機と接続する.
小さいころ,修学旅行で軌道へ上がったことがある.
そのときは皆で,星を眺めた,楽しい思い出だ.
今日,私はこの星を離れる.
半年の遊学,数光年先の世界へ.

物語は始まらない 5

私には,3つ下の妹と4つ下の弟がいる.
小さい頃からその二人の面倒を見てきたせいか,私は両親に甘えるのがどうも苦手なようだ.
それでなくても,性格的には不器用な父に似たらしく,父母にあまり素直になれない自分がいる.
普段はとても健康なので,めったにない風邪をひいた時は,だから私には特別だった.
その日だけは,母を独り占めにできたからだ.
直りがけには必ず作ってもらったのが,「温っためた牛乳」だった.
冷めないうちに飲んでしまおうと焦るのだけれど,
熱いので息をかけて冷ましながら,少しずつ飲む.
母はそんな時,私が飲み終わるまで,必ず側で見ていてくれた.
それはいつも作ってくれる「温っためた牛乳」とは違い,とても甘く,やさしい味がした.
実は,風邪の時だけハチミツを少し入れたのだということを,私は後になって知った.
ホットミルクを作るのは,ちょっとした儀式のよう.
冷蔵庫から牛乳パックを取り出す,
マグカップで計量してミルクパンにあける.
角砂糖を1個ないし2個入れる,時々は黒糖もいい.
弱火にかけるけれど,目を離すことができない.
ほんの少しでも泡が立つと,すぐさま火を止めなければいけない.
「あんたはトロいさけ,特にねぇ.」
とチハちゃんに言われるので,ミルクを温めている間は,何もすることができない.
もともとホットミルクが好きなので,よくミルクをレンジでチンしていた.
去年の誕生日に,チハちゃんがミルクパンをプレゼントしてくれた.
その日から,彼女の指導のもと(?),ミルクパンは大活躍している.
だから,ミルクパンで作るホットミルクはいつも二人分.
お湯を注いで温めてあるマグカップも,二つ.
秋と冬の夜は寒くて長いけれど,
今日はそんな夜もいつもよりちょっと短い.

物語は始まらない 4

団体で御観光さんたちが押し寄せてきたので,私達は部屋を後にした.
「タレルの部屋」は美術館の一展示室なんだけど,四角く切り取られた空が借景になって眺められる.
街家の中庭のよう.
いつでものんびりできる場所,ただし人があんまりいない場合に限られる.
「まだ,ちょっと気持ち悪い.」
とはマサキの言,昨夜のお酒がまだ残っている.
「チハちゃんは,平気そうね.」
それはそうだ.
一緒に飲んでいたけど私は,そんなに飲めない.
それでも,昨日は彼女に付き合わされてけっこう飲んだ方だ,
「少し頭イタいかも.」
「いつも休みの前の日に飲んでるから,休日の午前中は寝て過ごすけどもったいないよね,」
「だから,明日は早起きして遊びに行こう.」
というなりゆきで,珍しく日曜の朝から二人でつれだって来たというわけ.
朝はといっても,待ち合わせは結局10時まで延長された.
秋口の晴天で気持ちが良いはず,飲んでいなければ.
そのせいか,美術館を出ると観光客が今日はとりわけ多いようだ.
すぐそこの兼六公苑はいわずと知れた観光名所だし,
金沢城では二の丸御殿の復元が始まり,つい先日部分的に公開が始まったところだった.
このあたりは華やいだ空気に満ちている.
「観光さん,すごいね.」
「ほやね.」
昨晩2時まで飲んでいた二人にとっては,その賑やかさはちょっとしんどい.
スクランブルの交差点を渡って広坂を登る.
坂の途中で,右側へ分かれる石段に入る,と,途端に静かになる.
木々が生い茂り昼間でもかなり暗い.
つい先までの宣騒がウソのよう.
この道は,御観光さんはほとんど通らないし,ここの人もあまり利用しない.
はっきりいうと何にもない.
何にもないとはいえ,石段を登りきって少しいくと,木々に囲まれた洋館がひっそりと建っている.
もとは陸軍第九師団長の公邸で,今は休憩所として公開されている.
優雅なつくりの応接間に入ると,ソファに座ってのんびりする.
ソファは,豪奢な部屋に相応しいとはいえないが,
一般客向けとしてはけっこう上等なもので,フカフカだ.
部屋の中には,やはり,他のお客さんはいない.
ここは二人にとって,隠れ家というか逃げ場のような場所として重宝していた.
「あと,ひと一月か,」
私は自分に確認するように,声に出して言った.
道路をはさんで向かいにある兼六図書館が,お城の中に移転する.
同時に休憩所も改修されるため,しばらくは入れなくなる.
「じゃ,今日はここで一日ぐうたらしよう.」
若い女の子が,こんな所でひきこもりなんて,
「もう女の”子”じゃ,ないよ〜.」
「はい,はい.」
しばらく休んでから遅めの昼ご飯を食べに向かった.
そばかうどんにしよう,ということで一致したけれど,
寿限無か砂場か,というところで意見が分かれた.
そんな秋の日だった.

物語は始まらない 3

私が生協の食堂についたとき,約束の時間に少し遅れていた.
彼女は,出口に近いいつもの席に座っていた.
声をかけずに私は彼女の向かいの席につく,
そして,彼女の手が止まるのを待つことにする.
彼女はすでに食べ終えたお昼ご飯のトレイを片方へ寄せていて,
2階の書籍部で買った本を紙袋から取り出した.
そして,本は横へ置き,その紙袋を手にした.
手慣れた手つきで紙袋の端をしごき,袋を開いていく.
裏返しにしたそれに本を載せ,現物合わせで折り曲げる.
そうして本にかぶせると,その紙袋が本のカバーになる.
「おまたせ」
とチハちゃんが席を立ち,そのままトレイを下げにいく.
帰りしなに私は席をたって,一緒に食堂を出た.
紙袋でブックカバー.
大学に入学して間もない頃,まだ友達と呼べる仲間もいないとき,
やはり生協の食堂で,私はこの光景をはじめて見た.
大げさに言うと,それは何かの儀式のよう.
その後に仲良くなったチハちゃんには,
だから,私はこのことは何も言わない,ただ見ているだけ.
彼女からも何も言わない,やはり聞かれたくはないんじゃないかな.
このあたりが,チハちゃんと私の距離なんだと思う.
たぶん.

物語は始まらない 2

「アルクトゥールスの小石」という心理学用語がある.
アルクトゥールスは太陽から36.7光年離れた恒星で,
その周りを回っている地球型惑星が一つ巡っている.
その星の赤道に沿って山脈があり,
その端の一方に小さなクレーターの中央近くに小さな頂が見える.
そのふもと,塵が一面に積もる平野に一個の石コロが転がっている.
その石は,ちょうど卵くらいの大きさでやや偏平な形をしている.
色は少し緑がかった灰色,重さは見た目ほど.
手の中で転がすのに良いくらいの手触りだ.
誰も見たこともない,実際にあるのかも分からない石.
しかし,一度それを認識することによって,それはある程度の存在感を持ちうる.
要は,ひとの心の中での存在感というものは実在の存在感とはしばしば無関係である,ということらしい.
「アルクトゥールスの小石」という社会学用語があった.
チハちゃんから聞いたこの話は,その実全くの作り話だった.
彼女と話をするようになったのには特に理由もなく,
なんとなく友達になっていったように思う.
出会って間もないころに,私はチハちゃんからこの話を聞いた.
かなり真面目な性格の,まだ充分親しくなかった彼女の話を,
私は疑うことなど考えもしなかった.
ついこの間,何かの折に「小石」の話をチハちゃんにした.
「チハちゃんから聞いたのよ」
という私に彼女は怪訝そうな顔をして,
それから,何かに気がついたようすで,そのままチハちゃんは突っ伏した.
肩を震わせて,そして,笑っていた.
私は,ようやく騙されたことに気がついて頭に血が昇る一方,
はじめて見るチハちゃんの大爆笑(?)に驚いてもいた.
何が何だか分からなく,というより,どうでもよかった.
そして最後は,つられて一緒に笑っていた.
長い笑いがようやく収まってから,チハちゃんは私に謝った.
「でも,何でそんなこと言ったんだろ」
彼女らしくないその些細なウソは,チハちゃんにも出どころが分からないらしい.
私にはなおさらだ.
それが何だったのかは,今でも良く分からない.
ただ困ったことに,味を占めたチハちゃんが,
それから時々小さなウソを言うようになってしまった.
私がかなりだまされやすいせいなのかしら.

トナリの青い芝生

鉛筆で紙に線を描くと,それはいつも違う表情を見せる.
笑った線,怒った線,そして,ニヤリとすかした線.
時々はイイ具合に線を引くことができるのだが,
たいていは,思うように描くことができない.
ましてや,同じ線を引くことは二度とできはしない.
そのことに気が付いたのは幼稚園だったと思う.
小学生で漢字を書くようになり,書道を習い,書を描くようになる.
書は雄弁だ.
手を抜けば必ずそれを先生に教えてしまうし,
無心で筆を動かせば,(私なりの)成果を形にしてくれる.
線は組み合わされて文字となり,文字は連なり句となる.
句は集まって文章になり,物語が紡ぎ出される.
物語を読み始めたのは中学生だったと思う.
高校生になるとすぐ手が届く図書館にある,あらかたの物語を読み尽くしてしまった.
そして,頭の中で空想のお話が勝手に拡がり始める.
すぐさまそれは,私の右手を通して紙の上に固定されることを強要し始めた.
受験勉強に隠れてこっそりと書き始めたそれは,
大学の一般教養という名のモラトリアムの中で完成された.
それはヒドいものだった,作品と呼べる代物ですら,なかった.
一言一句がモトネタを容易に想像させる.
勢いに任せただけのそれは,
けれど,紛れもなく私の一部だったと思う.
15年振りに故郷へ帰る.
引越しのために荷物の整理をしていると,学生の頃に書いた文章が出てきた.
その内容をすっかり忘れていた私は,
読んでいる内にたった一人で赤面しながら,
声に出してツッコミを入れつつ,
我に返ると最後まで読んでしまっていた.
その夜,ソレを肴にして,
この土地での最後の酒盛りをした.
晩秋の夜空には,少しだけ欠けた月が出ている.
開けた窓から入ってくる風は,少しつめたかった.
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